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GW活動!

本日から5日まで私たちは南三陸町におじゃましています。私は南三陸町に初めて足を踏み入れました。

まずは仙台駅で9:00に集合し、それからバスに乗って2時間で南三陸町に着きました。

着いて思ったのは何もないということです。見渡す限り綺麗な更地しかありません。ガレキなどは、既に片付けられていて震災の跡は何もありません。しかし建物も見当たりません。綺麗な更地は津波によって流されて,その後ガレキなどが処理されて盛り土されたものなのでした。周りに海も見えないので、まさかこんなところまで津波が及んだなんて想像がつきませんでした。

バスで最初に降りたのはここです。この写真は防災対策庁舎の跡です。震災のとき避難の指令はこの建物から行われていました。この建物の3階で町民のために指令を放送していた方は、ここまで津波が及んでしまったことで、お亡くなりになってしまいました。他のガレキは撤去されましたが、この防災庁舎の跡は宮城県によって保存されることになり、周辺を公園にする計画があるそうです。

再びバスに乗り、窓からは鉄道の線路の残った部分と、高架道路を復旧工事が始まっているらしく橋げたが見えました。

次にバスで移動したのは「五十鈴神社」です。下の写真は「五十鈴神社」から撮影した小学校の跡地なのですが、校長先生の判断で小学校より高いところにあるこの神社に避難したことで生徒が助かったそうです。当日は、せまい神社で子供達も近所の方も、卒業式で予定してた歌を唄って夜を明かしたそうです。

そして、お昼ごはんを慶明丸でいただきました。予約制なので新鮮なカニやカキをいただきました。食後には被害に遭われた三浦さき子さんのお話をみんなで聞きました。印象に残ったことは次の点です。津波はすぐには来なかったが、想像以上に高い波が来てすべて流されてしまったこと。仮設住宅はできたが、全員が同じところに入居できなかったり、しばらくして人を集約するために移動になったり、仮設住宅が横にガラガラ引くドアではなく引いたり押したりする重いドアになったことで外に出て会話が減ったり、病気などで元の場所に戻れない人がいたりしてコミュニティが減ってしまったこと。支援を受けながらお店を再開したので物はなくなっても生きていればなんとかなるとおっしゃっていたことです。この話を聞きながら、周りにスーパーやガソリンスタンドもなくなり、友人も引っ越してしまって不便になってしまったのに、観光客やボランティアの方を待ちながらお店を営んでいるのは本当に心が強いなと感じました。お話をしていただき本当にありがとうございました。私たちが来ると元気になるそうですが、一方で後に長沖先生は震災後に頑張って来た人は6年たって疲れ始めてきていると言っていて、おこがましい表現ですが今後が心配だなと感じました。

昼食後はビジターセンターに向かいました。1年以内に建てられたのですが、ベランダからの海の景色が綺麗でした。カヤック庫があり、南三陸町をより魅力ある町にして人が訪れるようにするための策としてカヤックがあるそうです。また、館長が慶應の卒業生でカヤック庫を見せていただくなどお世話になりました。

最後に行ったのは、地震後に中学校の跡にできた公民館と、中学校の当時のままの体育館です。公民館では当時の時計や黒板、体育館では津波ではなく地震による窓ガラスが割れた跡を見ることができました。現在、中学校は合併でここにはないそうです。近くには仮設住宅もありました。

そして私たちは民宿に向かい、夕食をいただき、そして床につきました。

何度か南三陸町を訪れた先輩方は、町民の方に顔を覚えられていて、町民の方と慶應は震災後ずっと関係を築いてきたんだなと感じました。明日は、学校が管理する雑木林を訪れて山菜採りをする予定です。そこでお会いできる方は、いつも私たちによくしてくれるらしいです。短い間ではありますがよろしくお願いいたします。そして私はあと2日、南三陸町を楽しみたいと思います。


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